2008年04月27日

思考の訓練

 このブログでは、「思考する」ということをいろいろ議論してきた。
 ところで、人はいつどうやって思考することを覚えるのか?
 生まれたばかりの赤ちゃんが思考できるわけではない。ということは、本能の助けがあるにせよ、なんらかの訓練によって思考できるようになるのだろう。その訓練とはなんなのか?
 猫だって生まれたときから狩ができるわけではない。では猫はどうやって狩ができるようになるのだろう?

 お正月に実家に帰省したとき、しゃべることを覚えたばかりの甥っ子が、いろんなものを指差しては、大人が返す単語をまねしてしゃべるのをうれしそうに延々と繰り返していた。言葉をしゃべる、聞く、まねしてしゃべる、これがただ単純に楽しいからやっている。
 猫の場合は動くものにじゃれるのが大好きだ。じゃれるのが嫌いな子猫はいないから、じゃれると快感を感じるということが本能に組み込まれているんだろう。本能のままに楽しいからじゃれる、を繰り返すうちに、狩の基礎訓練が出来ていく。
 人間の場合も同じように、言葉をしゃべる、聞くことに快感を感じるということがきっと本能に組み込まれているのに違いない。そして、言葉をしゃべる、聞くを繰り返すうちに、言葉で物事を定義して、理解し、考えて、伝えるという、人間固有の思考の基礎訓練ができていく。

 思考は、やはり「言葉」で訓練するものなのだ。
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2008年04月12日

「見る」と「観る」

 先日、知人と会話しているときに、「若い子に病気の動物の状況をチェックさせていたのに、変化の予兆を見逃してしまって、危うく事故になるところだった。ちゃんと見ててといってるのにどうして気づかないんだろう?」という話がでた。見ているのに見ていない、これはどういうことなのか。予兆を見つけられるような見方を指導するにはどうしたらいいのだろうか?

 たとえば、ここに一見すると同じ2枚のイラストが並べてあるとする。この2枚を見比べるときの違いを考えてみよう。

(1)2枚のイラストがただ並べてあるだけの場合
 この2枚をただ見ると、「同じイラスト」だと思い、それ以上詳しく見ようとは思わない。

(2)2枚のイラストの上に「間違い探し」と書いてある場合
 この2枚のイラストのどこかに違いがあると思って、2枚のイラストを部分ごとに見比べていく。それによってたとえば違いが5つ見つかったとして、それ以上みつからなければあきらめて、さらに探そうとはしない。

(3)2枚のイラストの上に「7つの間違い探し」と書いてある場合
 目標がはっきりしているので、さらに詳細な部分を比較しながら7つ見つかるまで根気よく探していく。
 また、イラストがピースに別れていて、各ピースに1つ以上間違いがないと分かっている場合や、イラストの間違いがある範囲が絞り込まれている場合は、さらに効率よく間違いを見つけられる。

 (1)は違いを見つけようと思ってみていない。漠然と全体をみているのでこれを「見る」と定義しよう。
(2)や(3)は、違いを見つける目的で、部分に分けて比較をしている。観察や観測に通じる見方なのでこれを「観る」と定義しよう。

 辞書の定義によれば、「見る」と「観る」はそれぞれ以下の意味に該当する。
「見る」→視覚によって、物の形・色・様子などを知覚する。
「観る」→判断を下すために、物事の状態などを調べる。
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

 つまり、違いを見つけるには、「見る」のではなく「観る」ことが必要であり、「観る」には必ず何かと見比べる必要がある。
 
 では何と見比べるのか?

 変化の予兆を見つけるには、過去のある時点の状態と今の状態とを見比べなければならない。そのためには、今見ているときに、未来に比較することを前提に、見ているものを分解して状態を観察しておかなければならない。
 経験を積んでいれば、変化がどこに現れるか予想がつくので、その部分に着目して観察しておくことができる。しかし、経験がない場合はそれができない。
 従って、経験のない人を指導する場合は、予想される変化を具体的に示して、どこに着目して観察すればよいかを与える必要があるのである。

 これによって(1)の状態から(2)の状態にすることは可能と思われる。

 では、(2)の状態から(3)の状態にするにはどのように指導すればよいのだろうか。

 (3)の状態にするには、違いが見つかるまであきらめずに根気よくがんばる動機を与える必要がある。
 間違い探しの例のように「7つ」というような具体的な数値目標が与えられるならそれが一番だが、それが難しいときはどんな方法が考えられるだろうか?
 ひとつは、具体的な目標のかわりになる目安となる情報を与えるという方法が考えられる。患者の観察の例でいえば、こういう状態になった場合は、それからどのくらい時間で変化がでるはず、というような情報を与える。
 もうひとつは、違いを見つけた、または見逃した場合の影響度を伝えることが考えられる。間違い探しの例で言えば、全部見つけたら100万円もらえる!となったら、全部でいくつあるかは知らなくても一生懸命探す、というのと同じ理屈である。患者の観察の例でいえば、たとえば、最初の変化が観察されてから数時間以内に処置しないと命に関わる、というような情報をあたえる。

 経験者は自らの経験に基づいて自ら観察の目標や動機を作り出すことができる。
 しかし、経験がない人にはそれが出来ないので、目標や動機も指導者が与えてあげる必要があるのである。
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2008年03月22日

記事を書けなくなったわけ

 そもそも、このブログを書き始めた動機は、自分の所属している組織の知的生産性を上げたいというものだった。
しかし「知的生産性」を掘り下げていけばいくほど、個人の子供のころの育ち方や人生に対するスタンスにまでさかのぼってしまい、後から訓練で何とかなるような代物ではないという思いが強くなった。
なんども育成に挑戦してみたが、育成できない原因ばかりが明らかになり、育成なんか無理なのではないかと途方にくれてしまったとたんに、記事が書けなくなってしまった。

 1年前、新しい仕事で新しいメンバとチームを組むことになった。新メンバのリーダは、今までで明らかになっていた育成できない原因は持っていないように見えた。だから、彼を育成できなかったら、もう私に育成できる人はいない。そのときは今後育成をきっぱりあきらめようと覚悟した。
 そうして一緒に仕事をし始めて3ヶ月、なかなか変化は見られなかった。
 やっぱりだめなのか、もうあきらめようかと思った矢先に、彼は突然芽をふいた。自分に今出来ないことは出来ないと素直に認めて、それでもいくべき場所に向かって自分にできることは全力でやり、できないことはなりふりかまわず助力を求めるようになったのだ。それからは、まるで若芽のようにぐんぐんと成長し始めた。おかげでまた私は育成をあきらめるわけにはいかなくなったわけだが。

 彼はいま、自分の部下達の育成に真剣に悩んで取り組んでいる。
 彼が次々と衝突する課題を一緒に議論しているうちに、育成対象者が今いるレベルにあった訓練方法があるのではないかという気がしてきた。
 たとえば、エアロビクスの初心者は、模範演技をどれほど真剣に見て真似しようとしても、いきなり複雑な振り付けを覚えて音楽にあわせて踊るなど絶対に無理である。しかし、初級クラスでごく簡単なラジオ体操のような振り付けを音楽にあわせて踊るところから始めて、それができるようになったら、中級クラス、上級クラスと順次ステップアップしていくことで、ある程度までは難しい振り付けが踊れるようになる。
 思考法もこれと同じようにレベルに合わせた訓練によりステップアップが可能なのではないだろうか?そのための具体的な方法を見つけることは簡単ではないけれど、可能なのではないだろうか?と思えるようになってきたのである。

 貴重な仲間が増えたことだし、彼と共に、もう一度、知的生産性向上にチャレンジしてみるかと思っている今日この頃である。
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2007年04月21日

言葉の定義

 先日、客先で資料をレビューしているとき、自分がやたらと言葉を区別したり定義したりするための発言をしていることに気がつきました。たとえば、「このポリシー設定には、みんなで使う物を設定する場合と、特定の人が一時的に使うものを設定する場合とが含まれていますね。前者を共用ポリシー設定と呼ぶことにしませんか?」とか、「マイポリシー設定という言葉は、パッケージで使われている言葉ですが、要求される機能と一致しているかどうか現時点では分からないので、要求される機能のほうは別の言葉にしませんか?」というように。
 そういえば、SIの仕事を始めたころ、一緒に仕事をしていたmokurenさんが常にそういう発言をしているのを見て、うるさいと感じるほどやけに厳密に言葉を使うなということと、この言葉が今あいまいだというのがなぜ即座に分かるんだろう、と思っていたことを思い出しました。

 開発の仕事をしているときは、長年同じ人たちと同じような仕事をしていたので、都度都度言葉を厳密に定義しなくても、各自が勝手にそこで使われている言葉の意味を調整・学習することで会話が成り立っていました。
 しかし、短期間で新しいお客様と開発するシステムを検討・合意してシステムを構築するSIの仕事の場合、言葉があいまいなままお客様と合意したと思っていても、それは合意したことにはなりません。私は、SIの仕事でお客様とのコミュニケーションを繰り返すうちに、いつの間にか、言葉があいまいだということが判断できるようになっていたのです。

 では、私はどうやって言葉があいまいだということを判断しているのでしょうか?実際には、あいまいな言葉に遭遇すると、判断しているというよりも「気持ち悪い」と感じて反応しているようです。以前は言葉があいまいでも「気持ち悪い」と感じられなかったのに、なぜ今は「気持ち悪い」と感じるのでしょう?
 そのときに私の頭の中でやっていることをイメージしてみると、たとえば、電球を換える時の踏み台に椅子を使おうとしてその椅子に乗っても大丈夫かを確認しようとするとき、椅子をゆすってみてぐらぐらしないかどうかを確認しますね? それと同じようなこと、つまり「言葉をゆする」ようなことをしているようです。
 では、言葉をゆする、とは具体的にどういうことをして何を確認しているのでしょう?
 これは、ちょっと簡単には言葉にできそうにないので、先にmokurenさんに聞いちゃうことにします。
 ということで、mokurenさんの場合は、どうやって言葉の定義があいまいかどうかを判断していますか?
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2007年01月27日

根拠を作れない人たち(後編)

 前回の記事で、顧客に納得してもらえる資料をつくるには、点情報の事実をMECEになるようにパターン分類して全体を網羅した上で、そのパターンを根拠としてパターンそれぞれについて対策を考えて提案することが必要だと書いた。

 さて、以前、「2006年09月17日 わからないことを聞かない人たち」の記事で登場した人たちは、これがうまくできなくて、顧客に納得してもらえる資料を作ることができなかった。興味深いことに、うまくできない理由がまた、3人3様なのである。

 Aさんは、パターン分類そのものができない。抽象化そのものが難しいようで、どうしても点情報の事実に対しての対応策しか作れないのである。

 Cさんは、一応パターン分類をしようとする。しかし、いま見えているすべての点情報がパターンにおさまった時点で、考えることをやめてしまう。つまり、パターン自体がMECEになっているかどうかの検証を行わないのである。そのため、パターン分類自体にモレがあることに気づかない。

 Bさんは、パターンが出てくれば、パターンがMECEになっているかどうかを論理的に検証できる。しかし、経験が浅く、パターンのストックが少ないために、その場その場に応じた適切なパターン分類を見つけ出せない。

 このことから、事実から根拠を作り出すには3つの能力が必要だということがわかる。

 1.事実を抽象化してパターン化する能力
 2.パターンがMECEになっているかどうかを論理的に検証する能力
 3.パターンの分類軸のストック

 では、この能力を鍛えるにはどうしたらいいのだろう?

 数学の問題を解く例に当てはめて考えると、この能力のレベルには大きく2つのレベルがあると思う。
1つ目は、いくつかの公式を覚えて、問題を解くのに適当な公式を当てはめて問題を解くレベル。
2つ目は、問題から新たな公式自体を見つけ出して問題を解くレベルである。
とすると、2つ目のレベルは難しいとしても、1つ目のレベルは訓練次第で何とかなりそうだ。

 事実から根拠を作り出すときの公式にあたるものは、たとえば「5W1H」や「人・物・金・情報」や「マーケティングの4P」、「2006年05月27日芋づる式分解」の記事で書いた「処理に関わる4つの外部要素」や「データを操作する4つの処理」といったよく使われるMECE分類の軸である。これらの公式を知っていて、いずれかの公式を当てはめることができれば、ある範囲の問題は解くことができるようになるはずだ。

 したがって、あなたがもし、部下の「事実から根拠をつくる」能力を鍛えたいと考えているなら、あなたが普段使っているパターン分類を公式化して、そのパターン分類の公式の使い方を実践で指導して訓練するとよいだろうし、自分自身のその能力を鍛えたいと考えているなら、身の回りにある報告書や仕様書などさまざまなアウトプットに使われているパターン分類の公式を盗み出して、それを使ってみることで使い方を訓練するとよいのではないだろうか?

 (もし実践した方がいらっしゃるなら、是非結果を教えてください。成功、失敗、課題、疑問、なんでも結構です。実験データの収集にご協力御願いします。)
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2007年01月20日

根拠を作れない人たち(前編)

 あけましておめでとうございます。久々の投稿です。

 システムの要件定義のフェーズでは、事前に確認した現状業務の情報から、どの部分をどのようにシステム化するかを導きだして顧客に提案する。

 たとえば現状業務の事実が20ケースあるとしよう。20ケースのそれぞれについて、こうシステム化します、といったところで、顧客は納得するだろうか?
 それでは、どんな人でも納得することはできない。
 なぜなら20ケースはあくまで現時点で見えているケースであり、他に漏れていないとは誰も断言できないからだ。

 では、漏れていないことを納得させるには、一体どうしたらいいのか?
 現状業務の事実はあくまで点情報である。点情報のままでは、漏れているかどうかはわからない。漏れていないことを検証するには、点情報を面にして面で全体をもれなく埋めるしかない。点情報を面にするとは、点情報を抽象化してパターン分類し、判明している点情報がすべていずれかのパターンに分類されること、パターンが全体を網羅していることを示す必要がある。パターンが全体を網羅しているとは、パターン自体がMECEになっているということで、たとえば、時間軸で隙間なく分解したり、以前このブログで議論した反対語で分解したりすることである。

 このように、現状の事実をもれなく抽象化されたパターンに分類した上で、パターンそれぞれについて、この部分はこういう理由でこうシステム化する、この部分はこういう理由でシステム化せずに人間系で運用する、と説明することで、顧客は検討漏れを心配することなく、理由とシステム化イメージの議論に集中できる。
tenbunrui.JPG

(後編に続く)
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2006年09月23日

わからないことを聞かない人たち その2

 こういう人たちに、自分が分かっていないことに気づいてもらうには、どうしたらいいのでしょう?

 Aさんの場合、実際にピースを組み立てないと分からないんだということを知らないため、とにかくつべこべ言わずにこの部分のピースを組み立ててみろ、と組み立てさせて、組み立てる前と組み立てた後の違いを実感させるしかありません。

 Bさんの場合は、自分が組み立てたピースのほかに組み入れるべきピースがあることを具体的に示して、今組みあがっているように見えるもののどこにそのピースが入るかを考えさせる。

 Cさんの場合は、自分で作り出してしまったピースの部分について、どういう事実からそれがそういうピースだといえるのかを矛盾がでるまで質問して、それが自分が思い込みで作ったピースだということに気づいてもらう。

 いずれにしても、とても手間がかかります。手間がかかるということは、知的生産性が低いということです。知的生産性をあげるには、自分で気づけるようになってもらうことが必要です。

 では、どうすればこの人たちは自分で気づくようになることができるのでしょう?

 彼らに共通するのは、他の人から、自分が見えたと思っているものに対して矛盾を指摘されると、自分が見えたと思っているものがいかに正当かを必死で説明しようとします。なぜ、指摘した人がそういっているのかを決して探り出そうとはしません。

 実はここが一番の問題だと思うのです。
 自分が完成したと思っているものの矛盾を自分で見つけることは至難の業です。見たいものが見えてしまっている状態ですから、何度見直しても見たいものしか見えない。だからこそ、他の人から見えるものと自分が見えているもの差分でしか、自分が見るべきものではなく見たいものを見ている可能性に気づくことはできません。
 自分は常に、見るべきものではなく見たいものを見てしまう可能性があるのだという前提にたって、他の人の発言や反応からその個所がどこかを探り出す。そういう意識で他の人とコミュニケーションすることが必要なのだと思います。

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2006年09月17日

わからないことを聞かない人たち

 とあるプロジェクトの引継ぎで、3人のメンバに引継ぎをしようとしました。ところが、この3人、最初の概要説明のあと、引継ぎ元である私たちにほとんど質問をしてこない。引き継ぐとなると、概要レベルでは伝わらないことが山ほどあるので、質問しすぎても足りないくらいになるはずなのに。

 引き継ごうとしている情報はひっくり返してしまったジグソーパズルのようなものだ。「山の写真のジグソーパズルだよ」と説明を受けても、その状態ではどんな写真かは分からない。しかも、いくつかのピースはソファの下や新聞の間にもぐりこんでしまって、探さないと見つからない。

 紐解いていくと3人が3様の理由で分からないことを聞かないのだということが分かってきた。

●Aさんの場合
 手元に見えているピースの山を眺めて「緑のピースがたくさんあるから、確かに山の写真にちがいない」と納得している状態。

●Bさんの場合
 手元に見えているピースだけで、それらしいジグソーパズルを無理やりうまいことくみ上げてしまっている状態。それだけを見ると完成しているように見えるので、くみ上げたものに矛盾があるとも、足りないピースがあるとも思っていない。

●Cさんの場合
 ジグソーパズル全体をくみあげているが、足りないピースを「こういうピースがあるはずだ」と自分で作ってはめてしまっている状態。元からあったピースと自分で作ってしまったピースの区別がつかないため、どこが足りないピースなのかに気づいていない。

 だから、結局、3人とも、引継ぎにあたり、何が分かって、何が分かっていないかが分からない状態になっている。
 ・Aさんは、全体の作業項目が知りたいの一点張り。
 ・BさんとCさんは自分が理解した内容の範囲で作業を進めようとする。

 こういう人たちに自分たちが分かっていないことに気づいてもらうには、一体どうしたらいいのでしょう?また、自ら、自分がその状態にあることをチェックするには、どうしたらいいんでしょう?

次回に続く
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2006年09月01日

未知の領域にチャレンジする人、しない人

 仕事の上で関係する周りの人を観察していると、未知の領域に「チャレンジする人」と「チャレンジしない人」に大別できるような気がします。
 「チャレンジする人」と「チャレンジしない人」の違いはどこから来るのでしょう?

 未知の領域は、その人にとって経験したことのない世界、一歩先に何が待ち受けているか分からない真っ暗闇の世界ですから、人間であれば誰しもそこに足を踏み出すのは怖いはずです。
 では「チャレンジする人」は真っ暗闇の中に闇雲に足を踏み入れる、無謀な勇気の持ち主なのでしょうか?
 いえ、少なくとも、ビジネスの世界においてチャレンジする人たちは、なんらかの確信や根拠をもって未知の領域に足を踏み出しているように思えます。その確信や根拠は一体どこから来るのでしょう?

 その鍵は「抽象化する能力」なのではないかと思います。
 「2006年08月13日 抽象化の使い道」の記事でつかった例を元に考えて見ます。
 ある人が「ある自治体の宅建業免許の問い合わせ対応業務」をシステム化する案件を経験したとします。抽象化をしなければ、「自治体の宅建業免許の問い合わせ対応業務」は「既知の領域」ですがそれ以外は経験したことのない「未知の領域」です。
 しかし、記事で述べたように、「自治体の宅建業免許の問い合わせ対応業務」を抽象化をすると、「個人事業主やそれに準ずる中小企業に対する顧客対応業務」は業種に関わらずすべて「既知の領域」になります。細かいところまで含めると厳密には「既知の領域」とはいえないかもしれませんが、すくなくとも自らの経験を生かせる「既知の領域の延長線上の領域」にすることができる。

 つまり、一見すると「未知の領域」を、「抽象化する能力」によって、「既知の領域の延長線上の領域」に変えられる人、その結果、経験に基づく確信や根拠を持って「周りからは未知に見える領域」に踏み出せる人、これが「未知の領域にチャレンジする人」なのではないかと思います。
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2006年08月27日

ヌケとモレの違いは?

 先日、別の人が資料のレビューの際に「作業計画をたてるときのポイントは、作業の総量を把握することと、ヌケモレをなくすことだ」というのを聞いていて、ふとひょんなことに気がつきました。なぜ「ヌケモレ」と言うのでしょう?
 「ヌケ」と「モレ」はほとんど同じ意味の言葉のように思えます。でも、こういうシチュエーションでは「ヌケモレ」とセットで使いたくなります。一方でMECEの説明では「モレなくダブリなく」とは言いますが「ヌケなくダブリなく」とは言いません。いったい、「ヌケ」と「モレ」の違いは何なのでしょうか?
 
 大辞林で調べてみると、それぞれ以下のような説明が書いてあります。

ぬ・ける0 【抜ける】
[1] 中にある物が外に出る。
(オ) 構成要素の一部がなくなる。脱漏する。脱落する。
・ 名簿に私の名が―・けている
・ 途中で一六ページ分―・けている
・ 説明が―・けている

も・れる2 【漏れる・▼洩れる】
[1] 液体・気体・光・音などが、容器や仕切りの外側へ少しずつ出る。
・ タンクから燃料が―・れる
・ ―・れたガスに引火する
   〜中略〜
[4] 脱落する。抜ける。
・ 選に―・れる

 どちらも「脱落する」という意味ですが、「ぬける」は全体のうちの比較的大きな部分が欠けるような感じ、「もれる」は部分的にところどころ小さい穴が開いているような感じですね。
 ということは、「ヌケ」は全体を把握してはじめてどこが欠けているかを見つけられる、「モレ」はすでに把握されている全体をMECEできちんと「モレなくダブリなく」分解していけば見つけることができる。
 つまり、「ヌケ」は最初の視点から外へ外へと視点を広げて全体を把握する課程で見つけられるものであり、その意味で「関係」の視点から見つけ出されるもの。逆に「モレ」は最初の視点を内に内にと細分化して構成要素を洗い出す過程で見つけられるものであり、その意味で「分解」の視点から見つけ出されるもの、と言うことができるのではないのでしょうか?
 「ヌケ」と「モレ」はどちらも防ぐべき脱落ですが、それを見つけるためのアプローチが違う。だから「ヌケ」と「モレ」をセットで「ヌケモレ」というのだと思います。
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2006年08月19日

なぜ、思考手順のノウハウ伝達が難しいのか

 前回の記事で、「最近あった例で」抽象化の思考手順の具体例を説明しましたが、この記事を書くときにあることに気がつきました。
 それは、つい最近の例の他は、思考手順の具体例をまったく思い出せないという事実です。抽象化をした結果として出来上がったルールは思い出せるのですが、そのルールにどうやってたどり着いたのかを思い出そうとしても、さっぱり思い出せない。どうも私たちの脳は、限られた記憶容量を無駄なく使うために思考した結果は記憶するけれど思考の過程は忘れるように出来ているらしい。実は、このことが、思考手順のノウハウを人に伝えることを難しくしているのだと思います。
 何か物理的な物を作るときの手順も、それをやっていないときに、手順を思い出しながら言葉で説明して伝えるのはのはむずかしい。でも物を作る手順は外から見えるので、作っているところを他の人が見れば伝わるし、ビデオで撮影すれば記録することも可能です。でも思考手順は外から見えないので、思考している本人が思考している瞬間または直後にそれを言葉にして説明しない限り、他の人には伝わらないし記録することもできない。
 結局、ノウハウを伝える側に「思考している瞬間または直後にそれを言葉にして、記録する」能力・努力を要求する、ということが思考手順のノウハウを人に伝えるということの最大の障害なのではないかと思います。
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2006年07月15日

滑り込みセーフ

 先日、お客様に対するヒアリングの結果をまとめた業務フローをお客様に確認していただくためのレビュー会を実施しました。
 ヒアリング結果のアウトプットの評価は、ヒアリング対象者から聞いたことをどの程度理解して表現できているかによって180度変わります。相手が「私のしゃべったことをかなり理解してくれている」と思ってくれれば、あとの間違いは機嫌よく指摘して直してくれます。しかし、「せっかくしゃべったのに、ほとんど理解してくれていない」と感じると、「一体何を聞いてたんだ!」とクレームになってしまいます。

 今回の仕事では、私はヒアリング全体の取りまとめを担当しており、ヒアリング結果から業務フローを作成する作業は別の組織の2人で分担していました。ところがレビュー会の4日前にふたを開けてみると、内容は惨憺たる状態でした。書き方が分からないのではなく、聞いたことを理解していないので、何を書いていいのかわからないか、書いた内容があっているか違っているか分からないという状態だったのです。2人とも、私とまったく同じ内容を聞いているにも関わらず、です。一時はレビュー会で玉砕することも覚悟しましたが、レビュー会の前2日間、缶詰状態で2人が私の説明を口述筆記するというやり方で、何とかぎりぎり玉砕を回避することができました。

 私と業務フローが書けなかった2人の違いは何なのでしょうか?なぜ、私とまったく同じ内容を聞いていながら、理解した内容にこれだけの差ができてしまったのでしょう?

 私は、ヒアリング結果のアウトプットである業務フローのイメージをヒアリングする前から持っていました。そして、業務フローのイメージを頭の中に描きながら、頭の中で描ききれない部分はメモにイメージを書きながら相手の話を聞いていました。業務フローのどこに箱を置けばいいか分からないところや、どう線をつなげばいいか分からないところはその都度確認し、それが描けたところは「理解した」と自分で確認しながら聞いていたのです。
 しかし、業務フローをかけなかった2人は、ヒアリング結果のアウトプットとしてどのようなものをどのレベルまで作らなければならないかという明確なイメージをもっていませんでした。また、それを作るのに十分なだけ、自分たちがヒアリングの内容を理解したかどうかを確認する手段を持っていませんでした。言葉を聴いて点情報を点情報のまま関係付けることをせずに、日本語の文章として意味がわかったというレベルで「理解したつもり」になっていたのです。聞いている最中に理解度を確認することはできなくても、ヒアリングの直後に、実際に業務フローを書いてみる、ということをやってみれば、自分がどの程度理解しているかは分かったはずなのですが、それもやっていなかったのです。
 振り返ってみれば、私も昔からこんなことが出来ていたわけではありません。昔は、ヒアリング期間中は、ヒアリングの後でヒアリングメモを見ながら業務フローを書いて理解度を確認する、次のヒアリングで聞くことを準備するという作業で手一杯になっていました。しかし、それを繰り返しやっているうちに、いまはヒアリングの最中にそれができるようになったのです。
 しかも、いまでは、ヒアリングした内容は既に頭の中でアウトプットイメージに変換されているので、実際のアウトプットがどのレベルに達していれば合格点がもらえるか、というゴールもお客様にぶつける前に自ら設定できるのです。

 このことから、「理解する」には以下のことが必要だということがわかります。
・どれだけ理解すれば「必要なだけ理解した」といえるかという判断基準を持っていること。
・自分の理解がそのレベルに達しているかどうかを判断する手段を持っており、それを使って理解度を都度自己判定できること。
・理解するには、点情報どうしを関係づけることが必要。点情報を点情報のまま記憶している状態では、理解したかどうかは分からない。

 また、自分の経験に照らすと「理解する」技術の習得には訓練が必要だということも分かります。
・自分が理解しているかどうかの確認は最初は筆算しないとわからない。訓練すると暗算できるようになる。
・アウトプットの評価基準は相手の中にあるが、そのつもりで経験を積むことで、それを自ら設定することができるようになる。(これができて初めてプロと言える?)

 ヒアリングは、「理解力」を測るには絶好の機会です。是非皆さんも自分の「理解力」を計測するつもりで望んでみてはいかがでしょう?
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2006年06月17日

大失敗から分かること

 mokurenさん、話の途中に割り込ませてもらいます。
 昨日、客先で大失敗をしてしまいました。ヒアリングの実施場所を間違えていってしまい、20分も遅刻してしまったのです。間違えていった場所は、ヒアリング対象者の所属する第一営業部のあるビルで、私は何の疑いももたずに間違ったビルに行ってしまいました。
 なんでそんな間違いをしてしまったのかと、よくよく考えてみて、その2日前のヒアリングで、第一営業部とその場所を結びつけて理解しなければならなかったことを思い出しました。
 ヒアリングをするときは、自分たちの知らない相手の情報を一度に大量に聞きだして、全体像や細部の違いを理解しようとします。2日前のヒアリングでは、場所がはなれた第一、第二、第三の3つの営業部があり、第一営業部だけがヒアリングの目的である営業支援スタッフの組織と同じビルにあるために、コミュニケーションのやり方が他と違うということを教えてもらいました。そのときに私は、第一営業部と営業支援スタッフのいる場所とを必死に結びつけて理解しようとしていたのです。その結びつきが強すぎて、私の頭の中で、「第一営業部→ヒアリング場所」が、「第一営業部→存在する場所」に置き換わってしまったようです。
 このことから、理解するときには、点情報をお互いに関係付けようとしていることが分かります。この大失敗は、わかるために必要な「関係と分解と具体例」の「関係」の存在を確かに実感させる出来事になりました。
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